毛利梅園(もうりばいえん)

人物

トーク

トークを投稿するにはユーザー登録またはログインをしてください。

情 報

毛利梅園(もうりばいえん)とは、江戸時代、幕臣で書院番を努めていた本草学者。彼は生涯で数多くの写生図譜を残した人物で、魚の写生をまとめた梅園魚譜、草木の写生をまとめた梅園草木花譜、鳥類の写生をまとめた梅園禽譜などの作品があります。毛利梅園が制作した写生図譜は総称して「梅園画譜」と呼ばれています。梅園画譜は国立国会図書館に所蔵されており、誰でも閲覧できるようになっています。

寛政10年(1798年)、江戸幕府旗本毛利兵橘元苗(もとひで)の長男として生まれた。享和3年(1803年)、木挽町築地の拝領屋敷500坪が旗本寄合席有馬熊五郎へ譲られ、白山鶏声ヶ窪古河藩土井家屋敷内852坪地に転居した。

文政3年(1820年)頃から植物に興味を持ち、写生に熱中するようになった。屋敷内に草木を植え、当初梅樹園と号していたが、後に阿部正精に欑華園の号を賜った。文政5年(1822)12月24日書院番諏訪備前守組に加入し、文政13年(1830年)5月4日父の遺領を相続した。

天保2年(1831年)動物、天保6年(1835年)菌類に関心が移り、天保10年(1839年)活動が一端途絶える。天保13年(1842年)3月7日牛込からの大火に類焼し、3月15日麻布龍土町長州藩毛利家下屋敷に移り、梅竜園と号した。弘化2年(1845年)8月25日白山に新居を着工した。

弘化元年(1844年)写生活動を再開し、初めツバキの諸品種を模写している。江戸近郊へも積極的に採集に出かけるようになり、嘉永元年(1848年)9月高尾山、嘉永2年(1849年)3月箱根に採集を行い、また小仏峠、大山、江ノ島、鎌倉、金沢等も巡った[2]。しかし、嘉永2年(1849年)で活動が途絶え、嘉永4年(1851年)8月7日死去し、三田正覚院に葬られた。

Wikipediaより

こちらもオススメ

みんなの活動