空海

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空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお[1])。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。

延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。高野山壇上伽藍・根本大塔の塔内の正面に昭和天皇の宸筆の扁額「弘法」が掲げられている。

最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。。[18]

中世に入ると、空海の評伝を絵画化する動きが見られた。「弘法大師伝絵」と呼ばれるもので、絵巻の作品が中心である。「高野大師行状図画」(高野山地蔵院蔵)、「弘法大師行状絵巻」(東寺蔵)などがよく知られ、空海のさまざまな伝説が、全国に知られる一因となった。

弘法大師は「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもある。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指す。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いと言えるだろう。

真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認するのである。ただし、大師の諡号の下賜を朝廷へ奏上した、真言宗醍醐派、および醍醐派の系統を一部取り入れている智山派では、ときに「南無遍照金剛」と大師をつけずに呼ぶ場合がある。

故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

Wikipediaより

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